歯科治療の世界には独特な専門用語があふれているため、説明を一度聞いただけで理解するのは簡単なことではないでしょう。
例えば、矯正の際に前歯に引っ張られて奥歯が動いてしまう「アンカレッジロス」も、一般の方にはイメージしにくい言葉の1つです。
そこで今回は、この聞き慣れない言葉について、基礎知識から発生しやすい状況、さらには防ぐためのコントロール方法まで解説します。
アンカレッジロスとは?
アンカレッジロスとは歯科矯正の治療中に発生する現象で、前歯などを移動させるための土台とした奥歯が、逆に前方へ引っ張られてしまう状態を指します。
そもそも出っ歯や叢生の治療では、歯をきれいに並べたり口元を下げたりするためのスペースを確保する目的で、小臼歯を抜歯することが珍しくありません。
この現象を正しく理解するための鍵となるのが、物理学の「作用・反作用の法則」と、お口の中の「解剖学的・生物学的な特徴」の2つです。
綱引きの原理とも呼ばれる作用・反作用の法則は、ワイヤーやゴムで歯同士を引っ張り合う矯正治療とは切っても切れない関係にあります。
前歯を後ろに下げようとするときに、最も根が頑丈な奥歯を固定源にして引っ張るアプローチをとるのが一般的です。
狙いどおりに前歯を後退させる力が働きますが、同時にそれと全く同じ強さの力が奥歯を前に引き寄せようと機能してしまいます。
本来、矯正治療は動きにくい奥歯と動きやすい前歯が引っ張り合うことで、前歯のみを大きく移動させるように設計されているものです。
しかし、奥歯は決して不動の杭だとは言えません。
そのため、前歯の抵抗が勝ってしまうと奥歯側がズルズルと前に引き寄せられる結果を招きます。
アンカレッジロスには解剖学的な特徴があり、下顎よりも上顎のほうが圧倒的に起こりやすいと言われています。
この差を生み出すのは骨の硬さであり、下顎骨は緻密で非常に硬い「皮質骨」に覆われているため、歯の根元ががっちりと固定されていてそう簡単には動きません。
反対に上顎の骨は下顎に比べて密度が低く、内部が網目状になった柔らかい「海綿骨」の割合が大きいため、歯が移動しやすい状態にあります。
したがって骨の柔らかい上顎は、奥歯が意図せず前方へズレてしまう絶好の条件を満たしていると言えるでしょう。
しかも、上顎の大臼歯は3本の歯根を持っていますが、ブラケットなどの矯正装置をつけるのは歯の頬側だけです。
外側から前に引っ張る力が加わると、奥歯は単に直進するだけでなく、最も太い口蓋根を軸にして内側に回転するように動いてしまいます。
「近心ローテーション」というこの回転運動が加わることで、アンカレッジロスが一層加速しやすくなる仕組みです。
アンカレッジロスのデメリットとリスク

アンカレッジロスが抱える問題は、単に奥歯が前にズレるだけにとどまりません。
治療計画の根幹を揺るがすデメリットを引き起こすため、軽視できないトラブルだと言えます。
そもそも抜歯をしてまで矯正治療を行う最大の目的の多くは「出っ歯を引っ込めたい」「口元のモコッとした突出感を整えたい」というものではないでしょうか。
もし抜歯によって左右に7mmずつのスペースができたなら、本来はそのすべてを前歯の後退に使いたいところです。
ところが、アンカレッジロスによって3mm動いてしまうと、前歯は4mm分しか下げられません。
高い費用と時間をかけて抜歯までしたにもかかわらず、「思ったほど口元が下がらなかった」という不満足な結果に終わる恐れがあります。
歯には、上の奥歯と下の奥歯がパズルのように噛み合うことで正しい機能を果たす関係があります。
専門的には、上下の奥歯が理想的に噛み合っている状態を「アングルⅠ級の臼歯関係」と呼び、非常に重要な関係です。
しかし、上顎の奥歯だけがアンカレッジロスによって前方にズレてしまうと、この理想的な関係が崩れ、上下の奥歯のギザギザがうまく噛み合わなくなります。
その結果、せっかく前歯がきれいに並んでも、奥歯で物がしっかり噛めなくなったり、噛み合わせ全体が浮いているような違和感が生じたりするのです。
こうした予期せぬアンカレッジロスが発生した場合には、予定していた治療ステップを一旦中断しなければなりません。
前に出てきてしまった奥歯を元の位置へ引き戻す、リカバリー治療を行う必要があるからです。
歯を一度前方へ動かした後に再び後方へ戻すという往復の移動は、数ヶ月から半年以上のタイムロスをもたらします。
これにより、最終的な治療期間が大幅に長期化する事態を招きます。
ちなみに、アンカレッジロスはすべての症例で必ず起こるというものではありません。
いくつかの特徴を持つ患者様や、特定の治療計画において特に起こりやすい傾向が見られます。
例えば、前歯の叢生が強く、同時に口元も下げたいケースでは、抜歯スペースを両方の治療に分配しなければなりません。
このように奥歯を固定源として前歯を引っ張る力が長くかかり続けるほど、奥歯にかかる負担も大きくなり、前方へ引っ張られやすくなってしまいます。
もし成長期の子供であれば、顎の骨が成長する勢いで多少のズレは自然にカバーされることもあります。
ところが、すでに成長が止まっている成人の場合は、自然な骨格の補正を期待することができません。
そのため、奥歯の純粋なズレがそのまま治療結果に大きな悪影響を及ぼしてしまいます。
また、普段から噛む力が強い人の場合は、ご飯を食べる際の上下の圧力によって奥歯がその場にキープされやすいという特徴があります。
一方で、噛む力が弱い傾向にある患者様は、奥歯をその場に留める生物学的なブレーキが働きません。
その結果、思いのほか簡単に前へ動いてしまうことが少なくないのです。
アンカレッジコントロールが重要
厄介なアンカレッジロスを防ぐために、矯正歯科医は固定源を制御・強化する「アンカレッジコントロール」という緻密な計算を行います。
現代の矯正治療には固定を強化する方法がいくつか存在しますが、課題を劇的に解決したのが「歯科矯正用アンカースクリュー」と呼ばれる小さなネジです。
「ミニスクリュー」とも称されるこのネジは、直径1.5~2mm、長さ6~10mm程度のチタン製で、麻酔をして顎の骨に一時的に埋入します。
そもそもアンカレッジロスは、動いてしまう歯を固定源にするからこそ発生する問題に他なりません。
したがって、動くことのない顎の骨に杭を打って起点にすれば、前歯を引っ張った場合でも奥歯へ一切の反作用が加わらなくなります。
結果としてアンカレッジロスを実質ゼロに抑えられるため、抜歯スペースのすべてを前歯の後退に集中させることが可能になりました。
また、従来であればヘッドギアなどの患者様の協力が必要な装置に頼らざるを得なかったケースでも、負担を最小限に抑えつつ確実な治療結果を出せるようになっています。
その代表例が、アンカースクリューの代わり、あるいは補助として用いられる「口腔内固定装置(トランスパラタルアーチ、パラタルバー)」というワイヤー装置です。
この装置は上顎の裏側に沿わせる形で、左右の大きな奥歯を太いワイヤーで橋渡しするように連結して装着します。
これにより、奥歯が内側に回転しながら前にズレるという動きを物理的にロックし、左右の奥歯がお互いを支え合うことで、強力な固定力を生み出すのです。
さらに、お口の中の奥歯に向けて太いワイヤーをつなぎ、頭部や首の力を使って奥歯を後ろに引っ張る「顎外固定装置(ヘッドギア)」という装置が選択されることもあります。
これは非常に強力で確実な固定源となりますが、装置自体が大きいため自宅にいる時間しか使えず、毎日サボらずに装着していただかないと十分な効果が出ません。
アンカースクリューが登場する前は主流の装置でしたが、最近では見かける機会がめっきり減ってしまいました。
ほかに、動かしたい前歯に対して、周囲の歯をワイヤーでガチガチに連結し、複数の歯を大きな塊にすることで、前歯に負けない抵抗力を作る方法も有効です。
まとめ
アンカレッジロスとは、矯正治療で前歯を動かした際に奥歯が受ける反作用のことで、奥歯が前にズレてしまう現象を指します。
奥歯が前方に動くと、歯を引っ込めるためのスペースが狭められてしまい、口元の突出感が十分に解消されません。
最終的な噛み合わせまで悪化してしまうため、これを防ぐアンカレッジコントロールが不可欠です。
現在の主流となっているのは歯科矯正用アンカースクリューで、奥歯を固定源にしない仕組みによって反作用を一切起こさずに治療を進められるでしょう。
東京品川区五反田周辺で矯正治療をご検討の際には、是非、当院にご相談下さい。
一人一人に合った治療方法をご提案させて頂きます。


